今年は昭和という元号が始まって100年の節目の年にあたります。
凡そ300万人の日本人が亡くなった悲惨な太平洋戦争を挟んだ有史以来の“激変“の100年といえる時代でもありました。
明治以降、国際化に大きく舵を切り、ひたすら豊かさを求め働き続け、世界からは“ウサギ小屋に住む”ワーカーホリック(仕事中毒)と揶揄され、時にはJAPAN as Number Oneと褒め殺しされ今日に至っています。
そして今、国内外ともに不安定かつ不透明な時代に遭遇し、残念なことに、戦後の動乱期ですら起きなかったような凶悪かつ陰湿な犯罪が頻発しています。
世代問わず、誰しもが『こんな社会で良いのだろうか?』と戸惑いながらも、さ迷っているような気がします。
Boys, be ambitious like this old man.
Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,
not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.
〈追記〉
札幌農学校で8ヶ月間、教鞭をとり、酪農の基盤を作ったクラーク博士の生徒への別れの言葉。
Boys, be ambitious.like this old man.
Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement,
not for that evanescent thing which men call fame.
Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.
少年よ 大志を抱け!この老人の如く。
お金のためではなく、私欲のためでもなく。
名声という空虚な志のためでもなく。
人はいかにあるべきか、その道を全うするために、大志を抱け!
① 吉本隆明の両親は、大正十三年春、熊本県天草から東京に出てきました。隆明の祖父・祖母、兄姉を伴い、母は胎内に隆明を宿していました。
営んでいた造船所が倒産して、「夜逃げ」同然に島(天草)を出てきたのだと、隆明は言っています。
なぜ、「夜逃げ」にまで追い詰められたのか。そもそも天草の吉本家とは、どのような一家だったのか。
この本では、現地、天草で取材を重ね、吉本隆明の出どころを探り、吉本思想の源流を見極めようとしています。
② 吉本隆明の思想の出発は、第二次大戦の敗戦にあります。
軍国青年であった隆明は、自分の生き方・考えが根底から覆されたショックから、手探りの模索を続け、独力で自前の思想作り上げました。
敗戦を迎えたのは、富山県魚津市。
魚津で、吉本隆明は何をしていたのか。隆明の戦中の生活を富山に探り、また、隆明がその不慮の死を悼んだ、伝説の編集者・岩淵五郎との対比のなかで、吉本の戦争体験と戦後を問うています。
イーソリューションズ株式会社 代表取締役社長
東日本大震災復興構想専門委員会委員
宇奈月町生まれ
魚津高校 卒業
慶応義塾大学 工学部卒業
慶応義塾大学大学院計測工学修士課程卒業
MIT Sloan School of Management
Master of Science in Management 卒業