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お知らせ

令和6年 年頭ご挨拶

富山県立魚津高等学校
令和6年元旦
同窓会長 大田 弘(魚高23回生)

能登半島地震発災という辛いスタートとなりました。
ご親戚、ご友人には少なからず被災された方々もいらっしゃると思います。
冬の寒い時期とも重なっています。心からお見舞い申し上げます。

【安政飛越地震】

富山県は比較的地震が少ない地域のひとつではありますが、複数の“活断層“の存在が県内でも確認されております。
“最近“では富山県と岐阜県の境でマグニチュード7.1の「安政飛越地震」(1858年)が発生。震源に近い立山カルデラでは4億㎥(黒部ダムの2倍の貯水量に相当)もの土砂が常願寺川上流をせき止めてしまいました。
このせき止め湖が決壊し、土石流が富山平野を襲い、2億㎥の土砂が広い範囲を埋め、死者140名、負傷者8945名という記録が残っています。

富山平野の各所に見られる“安政“の大転石
(富山平野の各所に見られる“安政“の大転石)
【石川県から分県】

この災害で河床が高くなった常願寺川では水害が倍増し、「日本一の暴れ川」となりました。
また、この後もカルデラに残された2億㎥もの莫大な土砂の一部は明治以降も下流に流れ、人々の命と生活を脅かしました。
明治16年(1883年)、治水を重点的に実施するため、富山県が石川県から分県。
明治39年(1906年)、富山県はカルデラでの砂防工事を本格的に開始しました。大正13年(1924年)に法律が改正され、砂防工事の国営化への道が開かれました。
こうして、常願寺川の上流域は、日本の砂防事業発祥の地となったのです。

高さ100mの白岩砂防堰堤・国の重要文化財
(高さ100mの白岩砂防堰堤・国の重要文化財)
【100年続く立山砂防工事】

常願寺川は地震以前には、扇状地の扇頂に当たる上滝まで、河口から舟運があるなど安定した河川でした。
しかし、地震後の災害の繰返しから、上流部で土砂を抑えない限り、常願寺川の治水は成り立たないことがわかりました。
現在、立山カルデラ内には、約2億㎥の不安定な土砂が残留しています。もし2億㎥の土砂で富山平野を覆うと、平均2mの厚さで堆積することになります。

したがって、将来の災害から富山平野を守るため、砂防技術を駆使した果てしない戦いが今も続けられているのです。

立山の砂防事業
(立山の砂防事業)
【災害との向き合い方】

日本列島はその生成過程、地形などから災害列島ともいわれ、有史以来、自然災害との戦いが繰り返されて来ました。
特に地震(津波)や噴火は“災害は忘れてた頃にやってくる“(物理学者・寺田寅彦)の戒めに代表されるように、その発生頻度は人間の寿命を何倍も超えることは珍しくなく、ついついその伝承は風化しがちとなります。
寺田は災害を防止するには自然への畏怖心を忘れず、科学技術(人間力)を過信しないこと。併せて災害伝承・教育を幼少期から徹底することが大切だと訴えています。
東日本大地震では津波で多くの方々が犠牲になりました。
しかしその昔、明治29年(1896年)の明治三陸大津波や昭和8年(1933年)の昭和三陸大津波の二度の大津波でも岩手県の漁村は壊滅的な被害を受けました。
その教訓を刻んだ県内の石碑は200基を超えていましたが、東日本大震災時に被害を免れたのは、その「震災遺構」を完全に守り抜いた唯一、宮古市の姉吉(あねよし)集落だけでした。
「此処(ここ)より下に家を建てるな」との重い戒めにより、集落の存続を願った先人の思いがしっかりと伝わっていたのです。

以上
資料・国土交通省ー立山砂防事務所