特別寄稿
同窓会長 大田 弘(魚高23回生)
昨年は“クロヨン“(黒部川第四発電所)が完成して60年目の年でした。
この工事は今も語り継がれる代表的な戦後の土木プロジェクトです。
映画“黒部の太陽“はこのプロジェクトを描いたものであり、観客動員数は700万人を超える空前の大ヒットとなりました。

(写真 黒部ダム全景)

(映画“黒部の太陽“ポスター)
この映画で石原裕次郎(1934〜87年)が演じたトンネル技術者のモデルとなったのが笹島信義さん(1917〜2017年・元熊谷組笹島班長・入善町出身)です。

(写真 黒部の太陽のモデルとなった男)


(写真 国土交通大臣(当時)と対談)
今回はその笹島さんの生き様を伝えたく、青山葬儀場で執り行われた告別式での弔辞(大田)を掲載致します。
東京 青山葬儀所
弔 辞
笹島建設株式会社 笹島信義会長のご霊前に、熊谷組を代表し、また、同郷富山県の後輩として、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
突然の訃報に接し、悲しみにたえません。
熊谷組のみならず、日本の土木界では「巨星、墜(お)つ」との衝撃が全国を走りました。
数年前から奥さまと都内の福祉施設に入所され、ご健康で穏やかな日々を過ごされていると伺っており、安堵しておりました。
今年10月10日の満100歳の誕生日は、久しぶりに故郷の富山に戻って、ご家族の皆様と過ごされる予定であったとお聞きしていました。
貴方は1917年(大正6年10月)、日本を代表する急流河川、黒部川の河口付近、富山県飯野村で多くの田畑を所有する七代目当主、笹島彌興(やへ)氏の次男としてお生まれになりました。
昭和13年1月、21歳の時、満州に出兵し、同年11月、敵の攻撃で頸部(けいぶ)貫通の被弾という重傷を負われました。
幸いにもマイナス20度を越す外気温が止血作用となり、奇跡的に生還され、日本において療養されました。
そして、昭和18年、近所に住む熊谷組関係者との縁で、熊谷組が請け負った神奈川県「津久井発電所工事」に参加されました。これが貴方と熊谷組との最初の接点でありました。
翌年、当時、熊谷組最大の下請けであった田中班・班長 田中利一氏と運命的な出会いをされ、貴方の傑出した「人を集める力」が認められ、以来、70年を超える「熊谷組と共に」が始まったわけであります。
北陸では越前の「飛島」、越中の「佐藤」といわれた時代でありました。
そして昭和20年5月、本土決戦を想定した岐阜県高山での軍の施設工事で、「海軍施設部熊谷隊笹島班」の大きな表札が掲げられ、笹島建設の創業に到ったわけであります。
暫くして、田中利一氏の紹介で、後に熊谷組の会長となる牧田甚一氏に初めて会った時のことを、貴方は「笹島建設の歩み(創業60年)」に、こう書きとどめられております。
牧田氏から「お前が笹島か」「はい」「もういい、出ていけ」と。
牧田氏は田中氏に向かって「あんな若造に軍の大事な突貫工事を任せて大丈夫か?」と問われ、田中氏はすかさず「笹島は、歳は若いですが、富山の男で職人を集めるのが上手いです。もし、まずいことがおきれば私が責任を持ちます」と応じたとのことでした。
貴方が「自分の生涯の師匠は田中親分だ」とおっしゃっていたことが思い出されます。
終戦後の昭和21年4月、一旦解散した笹島班を7名で再興することを決意、戦後の復興工事の需要が急増したこともあって、水力発電所のトンネル工事を中心に次々と実績を上げ、信頼を獲得されました。
昭和28年6月、今も日本の代表的な土木工事とされる静岡県天竜川の佐久間発電所工事では先輩班長と肩を並べる重要な役割で参加するまでに力をつけられました。この工事は日本で初めて外国製の大型機械・重機を本格導入したもので、その後の機械化施工の幕開けとなったものでありました。
そして、昭和31年、遂に黒部川第四発電所 大町2号トンネルの担当という大抜擢を受けることになりました。この大町トンネルは長野県大町から県境を越えて富山県側のダム建設地点へ資機材を運搬するために不可欠なもので、クロヨンプロジェクトの成否が掛っていました。
貴方が、戦後、笹島班を再興してから、ちょうど10年目、39歳の時でした。3,000m級の立山連峰の直下に5,000mのトンネルを抜く、工事は難航が予想されました。
貴方は当時を振り返って「掘れるかどうか自信はなかったが熊谷組からの命令であり、やらざるを得なかった」「ただ、黒部のことを分かっているのは自分しかいない、という自惚れ(うぬぼれ)があった」と仰っていました。
大町市扇沢に最大1,500名の作業員が寝泊まりできる宿舎を構え、昭和31年8月に工事を開始。佐久間発電所などで培った大型機械施工、新たなトンネル工法を採用し、ひと月に300m、当時の日本のトンネル掘削記録を塗り替える驚異のスピードで順調に進んでいきました。
富山県と長野県の県境(けんざかい)付近まで到達した時、破砕帯と呼ばれる柔らかく大量の地下水を含んだ地質に遭遇し、立ち往生となりました。いつ崩れるか予測がつかない危険な状態での作業の毎日、また、先が全く見通せない工事に現場の士気は衰える一方だったとのことでした。
「黒部は危険」との報道も相まって山を下りる作業員が続出。貴方は「あの時が一番辛かった」「作業服を着たまま、ヘルメットを枕に仮眠をとった」「床屋に行くと髪の毛がバサーバサーと抜けた」「盆の休みに故郷(ふるさと)に帰った作業員が戻ってくるかどうかが心配だった」「しかし、7割が “親方”ただ今!といって帰ってきてくれた。トンネルが貫通した時よりも嬉しかった」と仰っていました。
わずか、80mの破砕帯突破に7か月間を要するという気の遠くなるような闘いとなりました。
不可能といわれた破砕帯突破、何故、できたのか?との私の問いに対し、「始めは責任のなすり合いだった。しかし、途中から発注者の関西電力、元請の熊谷組、そして笹島班が立場を超えて、“それぞれがやれる事をすべてやろう”と心が一つになった」「関西電力の社長の太田垣さんが危険なトンネルの最先端まで視察され、覚悟のほどを示されたこと、数日して激励の葉書が自分のような者に届いたことが、笹島班の空気を一変させた」
そして「破砕帯を突破できない限りクロヨンはない。下請けとしての意地のようなものに火が付いた」
「それからというもの、作業員は自ら積極的に動くようになり、無茶するな!と逆に注意したほどだった」と振り返っていました。
その経験から「どんな工事でも、『発注者がいて、元請がいて、下請がいる』。この三者が渾然(こんぜん)一体となって「信頼と信用の輪」で結ばれ、成し得たものであり、難工事になればなるほど、この絆が一層不可欠な要素となる」との普遍の哲学に辿りつかれたのです。
貴方は部下に対して非常に厳しい方でした。曲がったことやその場しのぎの小細工を極端に嫌いました。
しかし、その一方で、末端の作業員まで家族同様に大切にされました。
10年ほど前に「貴方の最大の財産は何ですか?」と伺った時、おもむろに会長室の金庫から、ぼろぼろになった一冊の書類を取り出されました。
熊谷組笹島班 大町作業所 労務者名簿でした。4,681名のクロヨンの戦士たちの名前、出身地、家族構成などが事細かく書かれていました。
「大田社長、この人たちのお陰で今の笹島建設があるのです」「クロヨン以降、多くの難しいトンネルを担当させて貰いましたが、この名簿を開いて当時を思い起こし、手を合わせると、辛さなんて簡単に吹っ飛びましたよ」と仰っていました。
当時、クロヨンの笹島班で働いていた人の証言によると、「笹島の親方は私のような下っ端にも良く声を掛けてくれました。」「息子は来年中学だな。母ちゃんの神経痛は良くなったか。怪我をしないよう注意しろよ。」「そんなことまで頭の中に入っているのかと驚きました。この親方のためならどこまでもついて行こうと思った」とのことでした。
1,500名もの部下を危険に曝さざるを得ない状況下で、貴方がとった振る舞いは技術を遥かに超えた崇高なものでした。
笹島建設の全国安全大会に来賓として招待された時のことを思い出します。安全担当者が事故の起きる曜日・時間帯を統計分析して「休み明けは気が緩むので気を付けよう」などと発表を始めて5分ほどで、貴方の怒りが頂点に達しました。
「こんなつまらない分析をする時間があるなら1分でも長く現場に居ろ!」「現場では全員が家族。家族だと思えばお互いが注意し、助け合い、事故なんか起きないだろう!」と。
クロヨン工事全体での殉職者は171名、内、熊谷組担当工区では23名でした。貴方は誰よりも責任を感じ、ずーっと苦しんでいらっしゃったのだと思います。23名の大切な仲間を失ったのは、地獄のような破砕帯突破時ではなく、工事が順調な区間でありました。
貴方は「緊張感(厳しさ)のなせる業」と「仲間を思う優しさ」が何よりも大切であることを教えたかったのだろうと思います。
私は黒部川の電源開発の拠点となった富山県宇奈月町の山里で生を受けました。
小学校5年生の時にクロヨンが完成しましたが、村ではほとんどの人が笹島さんのことを知っていました。
「隣の村から日本一のトンネル掘りが出た」「笹島さんの話は心に響くものがある」との大人たちの会話が子供の耳にも入ってきました。
私が村に帰った時のこと。笹島さんに雇われ、クロヨンで賄い婦をしていたという老女がこう言いました。「標高の高い山でお米を芯まで炊き上げるためにいろんな工夫をした」「大変なトンネル工事から帰ってきた男たちの楽しみは風呂と腹一杯のご飯を食べること」「かあちゃんのご飯は日本一だと誉めてくれた。」「嬉しくなってもっともっと工夫を凝らして、男たちの元気を支えた」「こう言っては何だけど、クロヨンは私が造ったようなものだと思っている」と胸を張りました。
私は涙が止まりませんでした。
延べ1,000万人の人々の汗と涙の結晶のクロヨンには、貴方の情熱に感染した人々が半世紀以上もたった今でもクロヨンを忘れずに、自分の仕事に誇りを持っているのです。
昭和38年、クロヨンが完成し、富山市公会堂で完成祝賀会が行われた時、政財界の要人2,000名の末席に貴方の姿がありました。関西電力の方が来て「会長が呼んでいる。来てもらえませんか」と。まさか?と思いつつ、言われるままに最上席にいた太田垣さんのところに行ったところ、
「やぁ笹島君、久しぶりだね。覚えているかね。太田垣だよ」「破砕帯の時に比べると随分、表情が柔らかくなったね」「おかげで黒四ができたよ。ありがとう」と。貴方が太田垣さんを破砕帯に案内してから6年ぶりの再会、わずか、数時間の出会いであったにも関わらず・・・・貴方は珍しく泣いたそうですね。そして太田垣さんに惚れ直したそうですね。
昭和43年に公開された映画「黒部の太陽」は、貴方のモデル役を石原裕次郎さんが演じ、観客動員数が700万人を超える空前の大ヒットなりました。貴方は最初「あのような過酷な現場を映画化すると若者が土木の世界に入ってこなくなる」と反対されました。
貴方の予想に反し、映画を観た多くの若者が、私もその一人ですが、土木界を目指しました。貴方はまさに時の人となりました。
しかし、そのことを自慢されたことはなく、自ら進んでお話しされることも一切ありませんでした。
貴方にとってのクロヨンは、太陽でも栄光でもなく、地獄だったのではないかと私は思っています。クロヨン完成後、貴方はクロヨンには近づきませんでした。クロヨンという言葉を聞いただけで当時の火薬の匂いがよみがえる、辛かったことを次々に思い起こしてしまうと仰っていました。
ちょうど10年前、貴方が90歳になられた時、私は「笹島さん、ひとつの節目として先立たれたクロヨンの戦士たちへの供養も兼ねて訪問されたらどうですか」とお勧めしました。関西電力の特別なご厚意により、観光客が立ち去った後の夜に50年振りに80mの破砕帯区間に立った貴方は、黙ったままでトンネルを見つめられていたとのことでした。
貴方への思い出、感謝は尽きません。
私が社長になった時、貴方はクロヨンでの体験から人の使い方(リーダーのあり方)を次のように説いて下さいました。
「破砕帯に遭遇した当初、作業員はこれまでにない「恐怖」を感じていた。最初は作業員に対してハッパをかけ、怒鳴り散らしていたけど「自分は人の大事な命を預かっている。彼らも必死なのだ。怒ってばかりいては駄目だ」と思うようになったと。
「大田社長、怒鳴ってばかりでは駄目ですよ、ただし、甘やかしても駄目ですよ、部下を惚れさせることが大事ですよ」と。
貴方は一貫して「惚れさせる」をモットーに青函トンネル、東京アクアラインなどの日本を代表する難工事に立ち向かい、「日本のトンネル界に笹島あり」を不動のものにされました。
貴方の生き方は一徹でした。社会の風潮に踊らされることはありませんでした。常に物事の本質を見極め、筋を通す。また、人を惚れさせる天才でもありました。
お金には厳しい貴方でありましたが、お金では買えない大切なものがある、恩義・信義ということを最優先にお考えになりました。
クロヨン完成の翌年、昭和39年に笹島建設株式会社として独立された後も、常に熊谷組笹島班・班長との思いで行動されていました。
20年前、熊谷組が経営危機に陥った時のこと、下請けの動揺を抑えようとして開いた説明会は、逆に債権者集会の様相をきたしました。不安が渦巻く中、貴方は立ち上がってこう述べました。「みんな良~く考えてみろ。俺らが熊谷組に馳せ参じたときは法被一枚、地下足袋一足だった」「ここまで大きくなれたのは一体誰のお陰だ」「もしも熊谷組に万が一のことがあっても元に戻るだけのことだ」「その時は、俺は富山に帰って百姓をする」「俺は熊谷組に付いて行く」と。会場が静まり返りましたが、流れは一変。貴方に助けられたと同時に私の腹も決まった瞬間でした。
その後も、この場ではお話しすることが出来ない数々のご指導とご支援をいただきました。
貴方なくして今日の熊谷組はありません。
貴方は世間でいう名誉にも関心がありませんでした。
業界団体の活動とは縁がなかった貴方は叙勲の対象にはなっていませんでした。
数年前「黒部の太陽の笹島さんが勲章を貰っていないのは如何なものか?」と関係者に働き掛ける私のお節介は貴方にとっては大変迷惑な話であり、固く辞退されました。
「下請けのオヤジが天皇陛下から勲章を貰うなどとんでもない」「下請けには下請けの振る舞い方がある」「勘違いする人間、社員が出てくる」。これが固辞される理由でした。
私は困り果てたあげく貴方を説得しました。
「笹島さんのために推薦するのではありません。貴方が三途の川を渡って向こう岸に着いた時に、“おーい、みんなを代表して貰って来たぞ。”その一言を言って頂きたいだけのことです」と。貴方は渋々、首を縦に振られました。
懐かしい仲間たち、共に死力を尽くした多くの仲間たちが親方を待っています。どうぞ、皆さん方にもそのようにお伝えし勲章をみせてあげて下さい。
笹島さん、貴方が偉かったのは、請負師としての才覚を発揮し、日本のトンネル工事の歴史に大きな足跡を残されたことよりも、人としての生き方を示されたことであります。
貴方の生きざまは、困難に直面した時のリーダーとしての立ち振る舞い方、他人(ひと)を慮ることの大切さを思い起せ!と、建設業界に従事する者のみならず、現代を生きる多くの人々に教え続けてくれました。
どうか、これからも、燦然(さんぜん)と輝く“土木の太陽”となって、永遠に我々を照らし続けてください。
笹島班長、99年と9ヶ月、本当にお疲れ様でした。
ありがとうございました。
株式会社熊谷組
相談役 大田弘
(富山県黒部市宇奈月町出身)