特別寄稿
同窓会長 大田 弘(魚高23回生)
水利技術者 八田與一(1886年~1942年)は金沢出身です。60万人の農民を救った“台湾の恩人”と称され、毎年、台南市烏山頭(うさんとう)ダム(灌漑用水用貯水池)で慰霊祭が行われています。また、中学生向け教科書には八田の業績が詳しく紹介されております。
<干ばつの危機から救う>
八田は東京帝国大学で廣井勇に師事し、卒業後、当時、日本の統治下にあった台湾総督府土木課の技手として就職しました。台湾南部の嘉南平野(香川県相当の面積)は灌漑設備が不十分であったために、15万haほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていました。八田は大貯水池・烏山頭ダムを造り、水路を平野一帯にわたって張り巡らせました(1920年~1930年)。
<平凡の多数が仕事を成す>
多くの八田の逸話が語り継がれていますが、その一つが関東大震災(1923年)の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られた時のこと。八田は幹部の『工事に支障がでるので優秀な者を退職させないでほしい』という言葉に対し『大きな工事では“優秀な少数”の者より、“平凡な多数”の者が仕事をなす』とし、また、『優秀なものは再就職が簡単にできるが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか』といって優秀な者から解雇しました。同時に彼は解雇者の再就職先を探すために日々奔走しました。
<三年輪作法:共に豊かになる>
極め付きは「三年輪作法」の採用です。予算の大幅削減により烏山頭ダムの貯水量では15万haのすべての土地に、同時に給水することは困難で5万haが限界でした。しかし、八田は給水面積を縮小しませんでした。平野を3ブロックに分割し、水稲、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、一年ごとに“順次交代で栽培”する方法を取ったのです。
ダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると彼は考えませんでした。彼は土木だけでなく農業農作についても研究し、労苦を共にしてきた15万haを耕す60万人の農民に“あまねく”(三年ごとに)水の恩恵を与え、生産が“とも”に増え、生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えたのです。
そして、不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変貌させたのです。
八田の土木の目的は経(・)世済(・)民(世の中を治めて民を苦しみから救う)でした。(経世済民:経済の語源)
<農民が隠し続けた八田の銅像>
八田の銅像が烏山頭ダムを見下ろすように置かれています。ダムが完成し、農民たちは感謝の念から銅像を作ることを申し出たものの、彼は“立像”を拒みました。そのため、八田が工事中、思い悩んだ時に頭を掻きながら現場を眺めていた作業着姿、“座像”でつくられたのです。
その後、八田は1942年、綿作灌漑調査のためフィリピンに向かう途中の船が撃沈され亡くなりました。彼の死後、銅像は戦時下の金属供出の対象となるとの懸念から、農民たちによって隠されました。戦後、これが発見されましたが、時は蒋介石(中国国民党)政権の頃で、日本時代の銅像や記念碑、神社などがことごとく破壊されていたため農民たちは銅像を隠し続け、30年以上が過ぎた1981年、元の場所に戻されました。
<“公に奉ずる”精神>
李登輝 元台湾総統は八田が神のように慕われ尊敬される理由を次のように述べています。『国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじながら未来を背負って立つべき世代に対して、“人間いかに生きるべきか”という哲学や理念を八田は教えてくれた。“公に奉ずる”精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である、といわなければならない。』
東日本大震災発災時にどの国よりもいち早く、巨額の義援金を提供したのは台湾であった。八田没後、80年後のことでありました。
八田の生きざまからは、すべての人を慮るという土木技術者の作法(共生(ともいき))が見えてきます。