特別寄稿
<土木技術者を立志>
私は黒部川沿いの山村、宇奈月町(現黒部市)で生を受けた。宇奈月は100年ほど前から電源開発の拠点となった所で、最上流部に黒部川第四発電所(1963年完成/通称:クロヨン/殉職者数171名)がある。“クロヨン”が完成した時、私は小学5年生、学校にあった村唯一のテレビで、クロヨン完成の様子をみんなで観た。この時、この工事で同級生の父親が命を落としたことも知った。当時、作文に「大きくなったら安全にダムをつくる土木技術者になりたい」と綴った。
そして、高校生時代の1968年に公開され、観客動員733万人の空前の大ヒットとなった映画「黒部の太陽」を観て感動、土木を立志し、建設に関わった会社の土木技術者を目指して北の大地(北海道大学)へと向かった。土木であれば “山村”の出身者でも都会人には負けないだろうとの想いもあった。
<”企業戦士”からのUターン>
冬季五輪を控えていた札幌は既に人口100万人の大都会であり、牧歌的イメージとは程遠く“失望”したが、仕送りなしが進学の条件であったため「稼ぐ」には好都合であった。
目標の建設会社に入社し、アクセルを踏み続ける“暴走族”(当時は企業戦士ともいった)と化した。がむしゃらに働き続け、また、運命の悪戯で、志の原点であった技術屋は40歳を前にして離脱、その後、経営トップに就くという想定外の事態となった。そして、この45年間、故郷を振り返ることは一切なかったが、退職を機に5年前から生活の拠点を東京から宇奈月に変えた。生まれ故郷への移住である。
<集落に必要だった理不尽な掟>
“田舎を捨てた”不届きものであったにも関わらず、何事も無かったかのように集落民は私を温かく迎え入れてくれた。家の周りの草を刈ったり、倒木を片付けたり、山道を整備するなどの日々を送っており、昨年は何十年ぶりかに家の周りにホタルが戻ってきた。
同年代の村人と昔話をする中で、子供の頃から理不尽、非合理!だと思い忌み嫌っていた田舎の風習、慣習にはそれなり理由があったことも分かった。生きるための術として集団が前提だった当時は“多様性”は許されなかった。里山に住むには「里山に住む掟」が必要だったということだ。
<双方ガマン、ガマンの共生(ともいき)>
ボーッと山を眺めていると小さい頃のことがつい最近の出来事のように蘇ってくる。
家の敷地内に流れている農業用水の水門を開閉させて遊んでいた時のこと。祖父からこっぴどく叱られ納屋に閉じ込められた。この集落は100年ほど前までは米作に必要な十分な水が得られず養蚕や煙草葉・果樹栽培で何とか生き抜いてきたが、土木技術の発達により黒部川からの引水が可能となった。一方で依然、水を巡る争い(我田引水)が絶えなったので、選ばれた数人の大人が掟に基づいて公平な水門操作を行っていたのだ。水量が少ないときは少ないなりに“お互いがガマン、ガマン”の共生(ともいき)である。
<柿の三つとお陰様>
また、私が小学生の時、庭に成っている柿の実“三つ”を祖母にねだった時のことを思い出す。祖母はこう言った。「一つは食べて良い。もう一つは鳥にやる、そして最後の一つはそのままにして土に帰す」と。納得はいかなかったが、歳を重ねるにつれ祖母の「柿三つ」話が私の頭の中でどんどん大きくなっていった。
「持続的成長」と「環境問題」・・生き方の根幹に関わる「課題」が我々に突きつけられている。人は「自分だけの力」で生きているのでもなければ、「今、現在だけ」を生きているのでもない。自然の恵みを享受しながら、また、先人達が苦労して築き上げた財産を使わせてもらいながら、今を生きている。そういう「有り難さ」「お陰様で・・」を忘れてしまうと、「柿の実三つ」を全て自分だけで食べてしまいたくなる。
現世では「豊かさ」を味わえるが、後世に残すものは「傲慢の精神」と「破壊への序章」である。小学校に通うことが許されなく、読み書きが出来なかった祖母。人が生きる「原理原則」を一体誰から教わったのだろうか?
企業の成長、人の幸せの物差しがことごとく貨幣換算されがちな現代社会、そして悪質な経済犯罪の頻発、他人(ひと)を慮る心の希薄化・・・・我々世代がやってきたことは正しかったのか?経済的発展、物質的豊かさを優先したあまり、その一方で共生(ともいき)と云う基本動作・掟をどこかに置き去りにしてきたのではないか?
その大罪への自問自答の日々が続く。