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お知らせ

特別寄稿

魚津高校(第三中学校)を決した上埜安太郎という男
令和7年9月
同窓会長 大田 弘(魚高23回生)

 魚津高校の前身である富山県第三中学校が創立されたのは1899年(明治32年)、第一中学校(現・富山高校)、第二中学校(現・高岡高校)に次いでのことであった。
県当局の提案では第三中学校の候補は”魚津“であったが、呉山以西(呉西)は”石動“を強烈に押し、県議会は二分され、激しい誘致合戦が繰り広げられていた。

 県議会での投票結果は
 魚津中学を不可とするもの 15名 
 魚津中学校賛成者 15名
の同数のため議長採決となった。

この時の議長は上埜 安太郎(うえの やすたろう:31歳:西砺波郡選出)であった。
議場は殺気を含んで重苦しい沈黙が支配したが。上埜議長は動ずる色もない。熟慮しばらくして議長の眉字に深い決意の色がみなぎった。

議長は徐々に身を起こして満場の凝視を浴びつつ
「議長は魚津中学校設立に賛成しこれを採決する」と宣言した。

賛成論者は万歳を絶叫し、否定論者は議長席目掛けて殺到し、議長の身に危険が迫った。
この時であった。議長の目には熱涙がほとばしっていた。公平無私の大道を行ったばかりの感激が全身からこみ上げてきたのであった。
そして
「我は呉山以西の議員にあらず、また呉東の議員にあらず、富山県会議長なり!」と。

上埜は静かに議長席を下り、殺気立つ呉山以西の議員にかこまれつつ控室に入った。
ここで初めて上埜は「選挙区の同志に相済まぬ」とかねて用意の辞職書を差し出した。悲壮胸打つばかり、怒りに燃えた同志の顔はみるみる内に変わっていった。
上埜が魚津中学を採った理由は、一校新設ならば県の発案通り魚津町が適当であり、石動町にも必要を認めるが県の財政がこれを許さず涙を呑んで私心を断ち辞職を決意したのであった。

(写真-上埜安太郎)
(写真-上埜安太郎)

上埜安太郎:1866年(慶応元年)~1939年(昭和14年)(享年73歳)
越中国礪波郡西五位村(現在の富山県高岡市福岡町)出身
1887年(明治20年)富山県会議員に当選、副議長、議長を歴任
1902年(明治35年)衆議院議員総選挙に当選。以後、10回の当選を重ねた
その間、1922年(大正11年)~1926年(大正15年)まで高岡市長
1927年(昭和2年)~1929年(昭和4年)まで田中義一内閣の鉄道政務次官を務めた。

議員引退後は、
1930年(昭和5年)~1933年(昭和8年)富山市長

以  上